働きたくない。

とにかく働きたくない。

 

この感情以外今の私にはない。そのせいで人生何も面白くないレベルに苦しんでいる。

 

正確に言うと、つまらないことをしたくない。そして、労働というものは概してつまらない。

 

誰が好き好んで機械のようにスーパーのレジを打ちたい?

誰が好き好んで知らない人間に愛想を振りまかないといけない受付の仕事をしたがる?

誰が好き好んで炎天下の中厚い作業着を着て交通整理の仕事をしたがる?

 

私の人生経験は確かに乏しい。世間のことをよく知らない学生である。ある意味特権身分と言えるかも知れない。しかし、実際その「世間」にて働いている人々を見ると、私と同じように労働に嫌気がさしている人がたくさんいる。どうやらこの労働への忌避感は単に私が世間知らずであるが故のものではないらしい。私と彼らの違いは、タイムリミットが来てしまったかどうか、現実に打ち負け労働に直面し惰性で労働を受け入れてしまったかどうかでしかない。

 

労働に苦しむ人がたくさんいる一方で、毎日楽しく働いている人がいる。これは本当にうらやましいことである。労働が労働でなく、遊びであるような人、あるいは労働が自分のものであると感じられている人は幸福である。

 

多くの労働は労働者自身のものではない。当たり前のことだ。会社はして欲しいことがあって労働者を雇う。労働者はやりたいことなんて出来ないし、成果物は会社のものである。そのために雇われたのだから。

 

労働が労働者自身のものではないなどと言うと、まるで共産主義者みたいだが、そんなつもりはない。資本家がいなければ、労働者の労働に価値など生まれない。資本家が資本を投入し、事業を行っているから労働者は労働にありつけるし、付加価値が生まれる。資本家を責めるのはナンセンスだ。

 

だが、現実として、私個人の現実として、私は労働によって疎外されていると感じる。まるで私は機械だと感じる。機械があれば、私はいらないだろうなと感じる。これは私がやっているアルバイト(そう、私はたかだかアルバイトについてこうも愚痴をたれている。しかしアルバイトだからこそ、である)の種類にも由来するのだろうが。よくも世の中の人はうまく折り合いをつけてやっているものだと思う。心底尊敬する。私は精神を壊しそうだと感じることが幾度かあった。なぜ私は自分の人生を使って、こんなつまらないことをし、物のように扱われなければならないのだろうか、と。

 

いっそ私がバイタリティ溢れる銭ゲバであればよかったのかもしれない。労働のむなしさなど吹き飛ばせるほどの金銭欲があれば、このようなひねくれた悩みを持たずに済んだやもしれない。我ながらつまらない人間だ。

 

私はこの疎外感を解決しないといけない。これは労働の話だがそれだけに収まらない。労働が人生の大部分を占め、日本人にとって致命的に重要なテーマであるから取り上げているだけで、この疎外というテーマは人間にとって常に大切な意味を持つ。そして、必ず断っておかなければならないのが、この問題の解決は、思想や哲学、概念によって解決されるのでは無く、実際の生活によってされねばならないということである。現実で出来事が起こって感情が起こる。その感情によって行動が起き、そして行動を起こす。その行動によって出来事が起こる。常に始まりは現実の変化である。まず生活から始めよ。

 

私がどのように労働の忌避感を解決するのか、解決できるのか。

今の私には見当もつかない。