近況

 

適当に就活して、適当なところに内定をもらいました、終わり。

 

 

 

 

 

いやまぁ、久しぶりにブログを見返してみたけど、なんかめちゃくちゃ中二病入ってて見てられないな。まぁ残しておくけど。

 

とはいえ、多少の心境の変化はあるとはいえ、当時と考えていることは大体同じで、働きたくねぇな、くだらねぇなぁという感じだ。

 

かといってじゃあ就活頑張っていいところ入ってばりばり働いて高給を得てさっさとリタイアをしようというのもできない、体力も精神力も活力もないから。

 

ほんとどうしようもない人間だな、我ながら。二年経っても何も変わらなかったな。

 

それどころか、アルバイトで疲弊したり、奨学金のことで思い煩ったり、コロナ禍で人とも中々交流できなかったりでかなり抑鬱的になって何もできず無駄な時間を過ごしてしまった(このことを後悔してまた鬱になったり……どうしようもないやつだ)。

 

この大学3年間での収穫があるとすれば、それは自分という人間を正しく認識しようという意識が根付いたことだな

 

要は、自分がいかにダメな人間で、ダメな人生を送ってきているかということを経験ベースで思い知ったということ

 

今までの俺は、そんな要領がいい人間でもないのに、ただただ高望みして不釣り合いな負荷をかけて失敗してきた

 

それをもうやめて、身の程にあった生き方をしようと思えるようになったのは、就職活動のおかげで、これだけはよかったことだと思う

 

 

自己分析!自己分析!正しい自己認識!

 

 

人間は自分に何ができるのか、自分は何がしたいのかを見誤った時、不幸になる……

 

 

 

 

 

 

 

 

句点をつけるかつけないかが難しい

 

 

選択のパラドックス

 

今日も1日なんとなくネットを徘徊して、なんとなくYouTubeを見てなんとなく過ごしていた。いまいちこれというたのしいことがない。こういうと、探さないと見つかるわけないとか、楽しもうとしないと楽しめないとか言われるけど。

 

www.youtube.com

そうやって自堕落にYouTubeを見ていたわけだけど、自分のことを言われているように感じる動画に出会った。内容を簡単に言うと、選択できないより出来る方が絶対にいいし、それが文明の進歩だけど、あまりにも選択肢が多すぎるとかえって幸せから遠ざかるよねという感じ。たとえや話者の話し方、ユーモアが面白いので見返したくなる。

 

新しくもなんともないと言えばその通りだけど、今の自分の心理的状況を顧みると適当には見れなかった。

 

あれがいいこれがいい、これは嫌あれも嫌といって身の程に合わないことを気持ちの上で追い続けてきた自分にとっては、まさに多すぎる選択肢によって自分自身の環境を受け入れることを妨げてきたのではないかと思ったりする。

 

自分の現状、能力、環境、こういったことを客観的に評価して受け入れて、少しずつ前に進んでいくしかないんだよな。

 

こういう話しかできないから、俺には友達が少ないんだろうとも感じた3月最後の日でした。クソみたいな人生だ。

 

 

バイト再開

 

40超えたくらいのおっさんが一番めんどうやなって。

 

バイト再開しました。再開といっても短期バイトで引っ越しをやっただけなんだけど。

引っ越しバイトって肉体的にめちゃくちゃしんどいイメージだったんだけど、実はそうでもなくて、そんなことよりも精神の方がきつい。引っ越しバイトに必要なのは体力や筋力よりもコミュニケーション能力と精神力です、これはガチ。

 

貯金がつきてバイトを始めたわけだけど、相変わらず労働は苦しい。精神的に苦しい。死にたいくらいだし、ずっっっっっと胸が重たい感じがする。バイトの前日なんかはなにもできない。生きている意味もわからない。正社員のおっさんたちのきつい言葉(僕の耐性がないのもあるだろうけど)にすぐ参ってしまう。前のアルバイトでもそうだったけど、なぜ人間は労働になるとあんなに恐ろしくなるのだろうか。責任感というやつですか。すごい。

 

今のバイト先にもとにかく苦手な人がいて、その人と現場で一緒になるともうどうして良いかわからなくて萎縮してしまうんだけど、本人は当然いつも通りなわけで、僕にコミュニケーションを求めてきたりして、それがとにかく苦痛でしかない。その人と一緒にトラックに乗ったりすると、トラックは三人乗りで、一人はドライバーのその人、もう一人は仕事のできる社員かアルバイトで、残りが私という感じなのですがとにかく居場所がない。自分的には完全なアウェー。にもかかわらず、その苦手な人は、私が黙っていると、そういう感じだと仕事がしにくくない?なんて言ってくる。あんたと一緒だからだよ。そしてその人は自分も昔は対人恐怖症で~でもすこしずつ変わっていって~なんて、ありがたいお言葉をくれた。もうほんと、勘弁してくれ。

 

でも実際、社会に受け入れられないのは自分のほうで、間違っているのも私なのだろうな。なんでこんなにコミュニケーションを取るのが苦手で、知らない人が苦手になってしまったんだろう。ぼくはこの先どうやって生きていけばいいですか。

アルバイト辞めて二ヶ月弱

アルバイトが嫌すぎて勢い余って辞めてしまったのが10月。そこから労働のない日常を送っているわけだが、「今は」すこぶる気分がいい。とにかくストレスがない。偉そうな客におびえながら接客することもないし、高圧的な客の理不尽なクレームに恐怖と怒りを覚えながらも手も足も出ず頭を下げることもない。店は店員を守ることよりも店の評判の方を重視する。自分には接客業は向いていないことを痛感した数ヶ月であった。

アルバイトを辞めて基本的にはよかったと思っているが、辞めて少しした時はつらかった。完全に経済的には自立した生活を送っているので、当然ながら働かないと収入がない。貯金を切り崩しながら生活しているわけだが、自分は結構心配性で安定を求めるたちなので、「定期的な収入がない中で一体これからどうやって生きていけばいいのか」とまではいかないが、強烈な不安を抱いた。これは本当につらかった。なにをするにも金の心配が脳裏をちらつき、何もする気にならなかった。できなかった。無論、全てアルバイトを辞めたことが悪いのだが、それはそれ。いや、これほどまでに歪んだ人格と労働観を持ってしまったこと、コミュニケーション能力や明朗さを失ってしまったことに対して、自分でも悲しく思う、平たく言えば「もっと普通に労働に耐えられる、みんなみたいな明るい人間であれたらよかったなぁ」と思いはする。

そんな金銭的不安にさいなまれることもあったが、そこからまたしばらくすると、今度はそれほどまでに苦しめられた不安を感じなくなった。そしてそこから今に至る。

別にお金が手に入ったわけではない。ただ単に現実逃避、現実から目を背けることがうまくなったというだけのことだろう。状況はなにもよくなっていない。しかしそれでも、不安や焦燥から逃れられるというのはとても重要なことだ。

それにしても、このアルバイトを始めて辞めるまでの一連の流れの中でたくさんのことを学んだ。労働内容からは特に学んだことはないが、労働そのものについては感じることがたくさんあった。今回学んだことは、たとえたいしたものでなくても、生活に困らないだけの収入があるというのはとても大事なことなのだということだ。この収入が人生に安心感をもたらしてくれるのだと痛感した。ささやかな安心感、安心感。

やはり労働は多くのことを教えてくれる。やってみないとわからないことというのがたくさんある。しかし接客業はごめんだ。これだけは極力避ける。そういう感じだ。

 

 

躁鬱状態

長らく気分が優れない。いつからそのような状況にあるか遡ってみると中学のような気もするが、あのときはなんだかんだ明るくやっていたことが多かったようにも思うので、もしかすると高校に入ってからかも知れない。正直昔のことはあまり覚えていない。言うまでも無く、大学に入ってからもそうで、気分が重く、体が動かないことがよくある。ひどかった時には希死念慮が絶えず、ずっとそのことばかり考えていた。あんなことは初めてだった。本当に自分で死んでしまうのではないかと怖かった。常に憂鬱で心(心がなにかはっきり答えられないので、やはり気分と言うべきか)と体が重苦しいというわけではなく、なにかのきっかけで元気を取り戻すことがある。そのきっかけというのは、意識的に状況を打破するための思考回路を作ろうと努力したり、運良く生活状況が好転したりすることだ。明らかに鬱にならない状況というのもあって、それは友人と一緒に何かをするときだ。人とのふれあいは鬱にも効くらしい。最も、本当に鬱

のときは家から出るのは難しいし、友達に誘われてもなかなか応える気にはなれない。状態が軽度の時に有効だろう。しかし、さらに言うならば、多くの人間はそれほど鬱になったり希死念慮に悩まされるものでもないらしく、そのような人間と私のような鬱屈とした人間が交流するのは難しい。気持ち的にはほとんど不可能にさえ思える。こうして私はどんどん孤立していくのかもしれない。元気な状態になっても、経験上それが長続きすることはない。ふとしたきっかけで活力を得ることが出来たとしても、すぐに日常のささいなことで霧散してしまう。こういう考えがいけないのだろうが、我ながら弱すぎるし、耐久力がない。ずっと鬱状態にあれば、自分としても「ああ、これは病気だな」と自分を信用できるが、鬱状態躁状態が繰り返されると、単なる自分の怠慢なのではないかという考えが拭えない。苦しいといいながら、ふと自分に意識を向けてみれば、どうだ、楽しそうにやっているじゃないか。しかし、その楽しみは偶発的なもので、一過性のものなのだ。本当に嫌になる。私はどうやって生きていくのだろうか。どうしたら生きていられるのだろうか。何をやっても楽しくない。

働きたくない。

とにかく働きたくない。

 

この感情以外今の私にはない。そのせいで人生何も面白くないレベルに苦しんでいる。

 

正確に言うと、つまらないことをしたくない。そして、労働というものは概してつまらない。

 

誰が好き好んで機械のようにスーパーのレジを打ちたい?

誰が好き好んで知らない人間に愛想を振りまかないといけない受付の仕事をしたがる?

誰が好き好んで炎天下の中厚い作業着を着て交通整理の仕事をしたがる?

 

私の人生経験は確かに乏しい。世間のことをよく知らない学生である。ある意味特権身分と言えるかも知れない。しかし、実際その「世間」にて働いている人々を見ると、私と同じように労働に嫌気がさしている人がたくさんいる。どうやらこの労働への忌避感は単に私が世間知らずであるが故のものではないらしい。私と彼らの違いは、タイムリミットが来てしまったかどうか、現実に打ち負け労働に直面し惰性で労働を受け入れてしまったかどうかでしかない。

 

労働に苦しむ人がたくさんいる一方で、毎日楽しく働いている人がいる。これは本当にうらやましいことである。労働が労働でなく、遊びであるような人、あるいは労働が自分のものであると感じられている人は幸福である。

 

多くの労働は労働者自身のものではない。当たり前のことだ。会社はして欲しいことがあって労働者を雇う。労働者はやりたいことなんて出来ないし、成果物は会社のものである。そのために雇われたのだから。

 

労働が労働者自身のものではないなどと言うと、まるで共産主義者みたいだが、そんなつもりはない。資本家がいなければ、労働者の労働に価値など生まれない。資本家が資本を投入し、事業を行っているから労働者は労働にありつけるし、付加価値が生まれる。資本家を責めるのはナンセンスだ。

 

だが、現実として、私個人の現実として、私は労働によって疎外されていると感じる。まるで私は機械だと感じる。機械があれば、私はいらないだろうなと感じる。これは私がやっているアルバイト(そう、私はたかだかアルバイトについてこうも愚痴をたれている。しかしアルバイトだからこそ、である)の種類にも由来するのだろうが。よくも世の中の人はうまく折り合いをつけてやっているものだと思う。心底尊敬する。私は精神を壊しそうだと感じることが幾度かあった。なぜ私は自分の人生を使って、こんなつまらないことをし、物のように扱われなければならないのだろうか、と。

 

いっそ私がバイタリティ溢れる銭ゲバであればよかったのかもしれない。労働のむなしさなど吹き飛ばせるほどの金銭欲があれば、このようなひねくれた悩みを持たずに済んだやもしれない。我ながらつまらない人間だ。

 

私はこの疎外感を解決しないといけない。これは労働の話だがそれだけに収まらない。労働が人生の大部分を占め、日本人にとって致命的に重要なテーマであるから取り上げているだけで、この疎外というテーマは人間にとって常に大切な意味を持つ。そして、必ず断っておかなければならないのが、この問題の解決は、思想や哲学、概念によって解決されるのでは無く、実際の生活によってされねばならないということである。現実で出来事が起こって感情が起こる。その感情によって行動が起き、そして行動を起こす。その行動によって出来事が起こる。常に始まりは現実の変化である。まず生活から始めよ。

 

私がどのように労働の忌避感を解決するのか、解決できるのか。

今の私には見当もつかない。

 

普通人はどのように生き抜いていくべきか

 

ずいぶんと久しぶりの日記になってしまった。始めたころは、もっとたくさん投稿して自分の考えの変化を見比べたり精神的な変化を見比べたりするつもりだったが、新しい生活というのは往々にしてままならないものだ。

更新していなかった間何をしていたかを簡単にまとめると(このブログはSNSに載せていないし、誰も見ていないと思うが、自分の生活の整理のために)、オンライン授業になったせいで課題があらゆる授業で出され、それをただこなし、バイトを始めたことで週5日3、4時間をむなしい労働に費やし精神を摩耗していたとだけ書けばそれで済むかもしれない。大学の授業とはこういうものなのか、もっと自由で時間があって、興味のあることを勉強できると思っていたのにと落胆したのはもはや大昔のことのように思える。

近況まとめはこれくらいにして、タイトルについて。

会計士を目指すことをやめた。正確に言うと、やめる方向で生活している。そもそも会計士を目指していたことをこのブログで言ったか全く覚えていないが、そういうことだ。

そもそもなぜ会計士を目指したか。それにはいくつかの理由がある。まず一つ目は、大学受験のリベンジ。一浪したにもかかわらず現役時代に受けても受かったであろう駅弁大学に在学しているという屈辱、惨めさ。二つ目は、前に述べたことにも関連するが、学歴を得ることには失敗したので、難関資格を得ることで社会的立場を高めたいという欲。三つ目に、奨学金と教育ローンで金を借りているので、速やかにそれらを返済できる高収入の職に就きたいという金銭欲。リタイアもしたいし。大体こんな感じ。他にも会計士の専門性も魅力的だとは思うが、これは会計士を目指すほど強い動機にはならない。

そしてここからが本題になるが、諦めた理由は端的に言えばしんどかったからだ。普通会計士試験のためにTACや大原に申し込むことになるだろうが、80万弱はかかる。これは援助してもらえないから自分で貯金することになるが、今私の毎月のバイト代は9万弱で、ここから生活費を自分で出しているのでこの額をまるっと貯金に回すことは出来ないので、80万円貯めるにはうまくいっても10ヶ月はかかる。ここで問題になるのが私の労働忌避感である。働きたくない。バイトすら嫌だ。貯金の前段階である労働が苦痛なのに貯金なんて出来るわけがない。バイトやめたい。そしてその苦しい労働を経て貯金を成功させたとして、合格率10%の試験にこの私が受かるのだろうかという疑問がふつふつとわいてきたというわけだ。難関試験であることは最初から承知していたが、大学生活とアルバイトを繰り替える生活の中で精神的にも肉体的にも追い込まれ、当初の覚悟とやる気を保てなくなったということである。今現在生活費をバイトで払っているのに、会計士試験の勉強を始めてバイトをやめたらどうやって生活していくのかも結論がでなかった。そもそも、私は働きたくない。働きたくないのに、なぜ労働にまつわる資格なぞ取ろうとしていたのか。大学に落ちた悔しさ、申し訳なさ、今の大学に在籍している自分への不満が、私を名誉欲へと駆り立てたのであろうことは想像に難くない。今思えば、完全に一時の気の迷いであった。

私は凡人である。凡人というと、コンプレックスが強調されるので普通人と呼んでみる。普通人の私であるが、労働への忌避感と怠惰さには普通人を越えるものがあると自負している。そんな私はどのようにこの人生を生き抜いていけばいいのだろうかと最近ひたすらに考えている。みんなと同じように就職をして、安い給料をもらって、なんとなく生活してなんとなく老いていく。普通人ながら、このような人生は御免である。かといって、人並み以上の能力や努力が強いられる世界にこの身を投じる覚悟はない。日本の行く末が明るければ脳天気にいられたが、そうもいかないであろう。結論は出たと思ったらまたすぐ振り出しに戻る。こんなことが何度も何度も繰り返されている。私はどうしたいのか。疲れたからこれくらいにしておく。